人生史的なもの。

自分の中の溢れ出てきてしまう過去とかいままでとか…話を聞いて欲しくても理解されない。怖くて言えないことを誰かに伝えたくて、でもできなくてここで吐き出してみようかと思いました。


○幼少期〜小学生

まず、私の人生で大きな生きづらさになったこと。顔に黒子が生まれつき多く25個程、幼稚園の頃からありました。これは私が双極症を発症した大きな原因の1つです。醜い顔面が原因で仲間外れにされたり、特に男子から虐められる貶されることは日常茶飯事。同性からも陰で悪口を言われ避けられる毎日でした。それに加えて発達障害の特性や傾向もあり対人関係が上手く作れず女子特有の雑談、意味のない会話が苦手でした。幼少期はなぜみんな雑談が出来るのか不思議でたまらなかったです。


そんな中、小6の頃いじめに遭い常に背後から悪口を言われている、監視されている。なにかすれば嘲笑われるという感覚になり手足ひとつ動かすのにも常に何かに対して怯えながら過ごしていました。


今、思えば不細工な容姿に加え発達障害の特性である空気の読めなさやコミュニケーションの不得意さは虐めるのにうってつけだしその原因を無意識のうちに沢山作っていたんだろと思います。



○中学生

この頃から、私は容姿に悩み過度なダイエットを始めます。顔がダメならせめて体型だけはと思い夕食はヨーグルトだけなど極端な方法をとり皮膚は乾燥してどんどんガリガリになって行きました。拒食症の一歩手前くらいだったかも知れません。また、中学1年生の頃はクラスでの対人関係がやはり上手くいかず今までの苦しんだ傷ついた経験からもうこれ以上は生きたくないしろくな大人になれないと思い母の服用していた睡眠薬を90錠程使い自殺を計りました。結局、未遂に終わり呆れた母の様子は私を心配しているものではありませんでした。母は精神疾患うつ病がありました。なので幼少期から訳の分からないことでいきなりキレて祖父母に当たり散らかすことは当たり前。情緒不安定で泣き出す。しまいには統合失調症もありお店の店員さんにクレームを入れて唾を吐くなどの奇行もあり私と妹は常にいつ母がヒステリックを起こすのかハラハラしながら過ごす毎日でした。


祖父母と離婚した母と双子の妹。

家庭環境は決して良いとは言えず私の悩みや生きづらさを素直に吐き出せ頼れる人は誰もずっといませんでした。


中学3年の頃には授業中お腹が痛く過敏性胃腸炎になったりもしていました。中学生くらいからストレスを体が無意識の内に体調不良で訴えてくるようになります。でも、ここで保健室登校になってしまっては負けだと思い必死で中学を卒業しほぼ進学者がいない遠方の高校に進学を決めました。


○高校生

遠方の高校に進学した理由は、黒子を全て取り誰も知らない環境で一から人間関係を作りたかったからです。勇気を出してそのことを母に伝えるとそんな自分勝手なことは許さないと反対されました。私のこの見た目による生きづらさ。罵詈雑言、からかい、いじめ、苦しみなどこれっぽっちも寄り添ってくれませんでした。それでも新しい環境なら良い人間関係を作れるのではと思い片道2時間かかる高校へ通学することになったのです。小4のころからずっと吹奏楽部だったこともあり強豪校でもある高校の吹奏楽部へ入部することになりました。ですが、周りのレベルが高いこと人間関係またこの頃からうつ病の症状が出始めていたのにも関わらず朝5時に起床して朝練を猛特訓するという今思えば躁状態の前兆のような努力をしていました。その頃の自分は頑張れば報われる。いま自分は努力が足りないなんとかしなくちゃ。対人面でも演奏面でも、自分はなぜこんなに上手くできないのか悩み責め次第にどんどんとうつの渦潮に飲み込まれていくようになりました。ですが、頑張り過ぎとストレスが仇となり顎関節症で顎が痛くなり演奏が出来なくなり退部を余儀なくされました…。高校生の頃のコミュニティが無くなるのは死活問題です。高校2年生からは更に孤立が強くなっていきました。そして、うつ病の症状が強くなり学業にも支障がきたしてきます。文字がだんだんと読めなくなる。話を長時間集中して聞けない。慢性的な頭痛と倦怠感。常に足がフラフラしており他に足がついていない感じがしてさすがに自分でも違和感を感じましたが体調不良でもなく頼れる相談できる人もおらず甘えだと思われると思いなんとか重たい体を持ち上げて片道2時間を通学していました。単位制の学校だったこともあり移動教室が常でノートを取らない、口頭のみでの授業が中心になっていきました。実は発達障害特性のAPD(聴覚情報処理障害)を当時は自覚していませんでしたが影響しており、頑張っても頑張っても授業の内容が頭に入らず5が多かった通知表もまたたくまに下がってしまいました。ずっとこの頃の私は努力が足りない、自分は怠けている、と思い塾に行き出したり勉強を頑張りますがやはりAPDの影響と文字の読みにくさが重なりどんどん成績は落ちていきました。高2の頃はとにかく部活をしていない分の内申点を稼ごうとマレーシアへ植林ボランティアへ行ったりバイトをしてみたりといろんなことに挑戦していました。ですが、飲食でのバイトは発達障害特性のマルチタスクやAPDがあり全く務まらず更にうつを悪化させることへ繋がりました。また、移動教室というざわざわした環境では上手く話し声が聞き取れずコミュニケーションが取れない原因にもなっていました。


これらの生きづらさのベースには、発達障害のグレーゾーンがあったことに当時はなんにも知りませんでした。約10年ほど経った現在だから客観的に考えられますが当時はなぜ?なんで?

なんでこんなにも努力しているのに自分は上手くいかなにのか。毎日毎日死にそうに悩みながら生きてました…。そんなストレスフルな毎日を送っていた私はついに高校3年の5月に双極症で倒れてしまいます。高校3年生にもなり本気で進路を決め出す時期に。頑張っても頑張っても報われない成績に焦りを感じ出した私は生徒会の補助員として申し込みさえすれば入れる役員に立候補しました。とりあえず内申点を稼がなきゃ。その一心で柄にでもないのに友達が副生徒会長ということもあり入ってしまいました。ですが、そこでも人間関係の難しさや重度になってきたうつの症状。加えて落ちた成績をなんとかするために寝ずに勉強をしていた生活。いままでのストレスや容姿のコンプレックスからくる対人への恐怖でついに私はそういう病気なのでは?と疑うようになりました。そしてどうしてこんなに自分は人と上手く関わらないのだろうと思いネットで調べて発達障害の特性を知りました。今程、認知度は高くなく医療機関でも専門的な検査はなくアンケートのようなものしかなく重度でなければ診断されませんでした。不眠がつづくことやその他うつ病の症状も伝えましたが発達障害の診断はおりずに抗うつ薬だけもらいました。

ですが、その抗うつ薬躁転へのきっかけとなり次の日から布団から一歩も動けなくなり3日眠り続けていたそうです。


そして、そこから私の双極症との闘病生活が始まります…。