③17歳のときの闘病とわたし。

まぁ、そんなこんなで通信制の高校に3年生の8月というなんとも謎なタイミングで転校することになりました。友人には病気のことを伝えても当時みんな高校生ということもあり、あまり理解はされなかったように感じます。心配してくれた子、怖がっていた子、そんな風には見えないと言っていた子。少しの子にしか伝えてませんでしたが、さまざまでした。

 

私は、家で文字が読めないのでひたすら暇つぶしも兼ねて漫画を読んでました。絵があることでなんとか文字も読めるのでリハビリも兼ねていました。あとは、お昼は1日中ラジオを付けて寂しさを紛らわせていました。(同時に今みたいになTwitterのスペース機能や友人がいたらどれだけ心強かっただろうか…。ふと良く思います。)

夜は、寝れないので英検の2次面接対策もかねてひたすら海外ドラマや映画を観て寝るようにしていました。どうせ寝れないのなら楽しい気分や自分にとって意味のある時間にしたいと思っていたからです。今はもう観ていませんが、映画が趣味になったのもこの頃の習慣からでした。

私の発症したばかりの半年はずっとこんな生活でした。当時の日記を読み返しても9年前ということもありますが辛過ぎてあまり記憶がありません。笑

 

只、日記を見返して感じたのは文字が読めないのに外に出れないのにこれからの私の人生はどうなるのだろうか?将来への不安でいっぱいでした。進路や大学などたくさん悩んだな〜といまはだいぶ昔のことのように感じます。

 

 

 

1番つらかったのは何より孤独だったことです。だからこうして今Twitterがあることにとても感謝しています。この頃のわたしは、妹しか社会と繋がる接点がなかったし映画を観ることで精神を保ってたから…。

 

鬱でどん底のときでも、笑えたインド映画

『きっと、うまくいく』や

アメリカの様々なマジョリティを抱えたティーンが悩みながらも強く描かれている青春ドラマ『glee』。洋楽が好きになったきっかけのドラマだし曲も素敵。現在でも、落ち込んだときはこの時知ったP!nkのf**kperfct には励ましてもらってます。(綴あってるかな?💦)

 

 

この頃の自分は先は全く見えないけど、とにかくどうにか良くなろうと精一杯頑張ってた。とても素直に闘病してたと思います。この頃の自分は「本当によく耐えぬいたね。」「頑張ったね。」とを声を掛けたいのと同時にせっかく頑張ってくれてたのに「こんな現在でごめんね。」という申し訳ない気持ちが強いです。

 

見られることはないも思うし参考にはならないけど、もし10代というとても早い人生の段階で精神疾患と人生を共にすることになった人へこんな人もいたんだな。くらいの気持ちになってもらえたらなと思います。

 

寝れない夜に。おやすみなさい。

 

 

その②

寝れない夜に続きでも書こうか…

 

布団から起き上がれない日が3日続き、ようやく目が覚めたとき私はなんと立つことすら出来なくなってました。でも、なんとか階段を降りないとと床を這いつくばって階段まで進みましたが体が言うことを聞いてくれず降りることもままなりませんでした。この日から私の体は、異常状態になります。

 

まず、文字が読めなくなりました。

文字自体は見えても文字を見ると気持ち悪い・吐き気がするなど新聞を近づけられるだけで気分が悪くなりしんどくなりました。そのことを学校で友達や先生に伝えても理解されずふざけて本を近づけられる始末…。ああ、なんでこんな苦しいのに誰も分かってくれないんだろう…。と途方にくれました。そしてなにより勉強が一切できなくなりました。受験生だった私には危機的状況でした。あの期間があってよく浪人して大学を4年で卒業できたなとしみじみ感じます。

 

そして立つこと、座ることができなくなってしまいました。椅子に座ろうと思っても体に力が入らずちゃんと真っ直ぐ座れないんです。どう頑張っても無理だったので移動は車で常に横になっていました。

 

そして、なんとか状態がいい日に学校に行っても電車に乗ると無性にイライラしてパニックになりその場にじっとしていられなくなりました。人混みに入ると人が怖くて気分が悪くなり人混みだと気持ち悪くなってしまうようになりました。頑張って学校に行ってみんな心配してくれるのですが、たくさんの人が自分の周りに来ることで吐き気を感じてしまう程でした。

 

 

文字が読めない、座れない、人混みがダメ。

必然的に通学すらすることが難しくなり通信制の高校に転校することになりました。保健室登校などいろいろと相談したのですが、中々理解が得られずやむを得ずの選択でした。

 

 

現在、治療している主治医と出会い、双極性障害の診断を受けました。しばらくは何もせず、

ひたすら自分の部屋で寝込むことが多く将来への不安や病気が治るかなど格闘しながら過ごしていました。当時の私はハイだったのか、ムカついて病気に負けてたまるか!!の精神で治療のため服薬し朝は必ず病気や薬の副作用で動きにくく重い脚を引きずりながらも頑張って散歩などをしていました。

 

夜は薬を飲んでも眠れない日が続き、映画をみたりTwitterを始めたりと気を紛らわせながらなんとか耐えていました。

 

私の闘病の始まりはこんな感じです😅

他の人の症状をあまり知らないのですが、自分は割と重めだったのでは?と書きながら感じました。

 

その後の闘病日記はまた次回にでも…。

 

 

おやすみなさい🌙

 

人生史的なもの。

自分の中の溢れ出てきてしまう過去とかいままでとか…話を聞いて欲しくても理解されない。怖くて言えないことを誰かに伝えたくて、でもできなくてここで吐き出してみようかと思いました。


○幼少期〜小学生

まず、私の人生で大きな生きづらさになったこと。顔に黒子が生まれつき多く25個程、幼稚園の頃からありました。これは私が双極症を発症した大きな原因の1つです。醜い顔面が原因で仲間外れにされたり、特に男子から虐められる貶されることは日常茶飯事。同性からも陰で悪口を言われ避けられる毎日でした。それに加えて発達障害の特性や傾向もあり対人関係が上手く作れず女子特有の雑談、意味のない会話が苦手でした。幼少期はなぜみんな雑談が出来るのか不思議でたまらなかったです。


そんな中、小6の頃いじめに遭い常に背後から悪口を言われている、監視されている。なにかすれば嘲笑われるという感覚になり手足ひとつ動かすのにも常に何かに対して怯えながら過ごしていました。


今、思えば不細工な容姿に加え発達障害の特性である空気の読めなさやコミュニケーションの不得意さは虐めるのにうってつけだしその原因を無意識のうちに沢山作っていたんだろと思います。



○中学生

この頃から、私は容姿に悩み過度なダイエットを始めます。顔がダメならせめて体型だけはと思い夕食はヨーグルトだけなど極端な方法をとり皮膚は乾燥してどんどんガリガリになって行きました。拒食症の一歩手前くらいだったかも知れません。また、中学1年生の頃はクラスでの対人関係がやはり上手くいかず今までの苦しんだ傷ついた経験からもうこれ以上は生きたくないしろくな大人になれないと思い母の服用していた睡眠薬を90錠程使い自殺を計りました。結局、未遂に終わり呆れた母の様子は私を心配しているものではありませんでした。母は精神疾患うつ病がありました。なので幼少期から訳の分からないことでいきなりキレて祖父母に当たり散らかすことは当たり前。情緒不安定で泣き出す。しまいには統合失調症もありお店の店員さんにクレームを入れて唾を吐くなどの奇行もあり私と妹は常にいつ母がヒステリックを起こすのかハラハラしながら過ごす毎日でした。


祖父母と離婚した母と双子の妹。

家庭環境は決して良いとは言えず私の悩みや生きづらさを素直に吐き出せ頼れる人は誰もずっといませんでした。


中学3年の頃には授業中お腹が痛く過敏性胃腸炎になったりもしていました。中学生くらいからストレスを体が無意識の内に体調不良で訴えてくるようになります。でも、ここで保健室登校になってしまっては負けだと思い必死で中学を卒業しほぼ進学者がいない遠方の高校に進学を決めました。


○高校生

遠方の高校に進学した理由は、黒子を全て取り誰も知らない環境で一から人間関係を作りたかったからです。勇気を出してそのことを母に伝えるとそんな自分勝手なことは許さないと反対されました。私のこの見た目による生きづらさ。罵詈雑言、からかい、いじめ、苦しみなどこれっぽっちも寄り添ってくれませんでした。それでも新しい環境なら良い人間関係を作れるのではと思い片道2時間かかる高校へ通学することになったのです。小4のころからずっと吹奏楽部だったこともあり強豪校でもある高校の吹奏楽部へ入部することになりました。ですが、周りのレベルが高いこと人間関係またこの頃からうつ病の症状が出始めていたのにも関わらず朝5時に起床して朝練を猛特訓するという今思えば躁状態の前兆のような努力をしていました。その頃の自分は頑張れば報われる。いま自分は努力が足りないなんとかしなくちゃ。対人面でも演奏面でも、自分はなぜこんなに上手くできないのか悩み責め次第にどんどんとうつの渦潮に飲み込まれていくようになりました。ですが、頑張り過ぎとストレスが仇となり顎関節症で顎が痛くなり演奏が出来なくなり退部を余儀なくされました…。高校生の頃のコミュニティが無くなるのは死活問題です。高校2年生からは更に孤立が強くなっていきました。そして、うつ病の症状が強くなり学業にも支障がきたしてきます。文字がだんだんと読めなくなる。話を長時間集中して聞けない。慢性的な頭痛と倦怠感。常に足がフラフラしており他に足がついていない感じがしてさすがに自分でも違和感を感じましたが体調不良でもなく頼れる相談できる人もおらず甘えだと思われると思いなんとか重たい体を持ち上げて片道2時間を通学していました。単位制の学校だったこともあり移動教室が常でノートを取らない、口頭のみでの授業が中心になっていきました。実は発達障害特性のAPD(聴覚情報処理障害)を当時は自覚していませんでしたが影響しており、頑張っても頑張っても授業の内容が頭に入らず5が多かった通知表もまたたくまに下がってしまいました。ずっとこの頃の私は努力が足りない、自分は怠けている、と思い塾に行き出したり勉強を頑張りますがやはりAPDの影響と文字の読みにくさが重なりどんどん成績は落ちていきました。高2の頃はとにかく部活をしていない分の内申点を稼ごうとマレーシアへ植林ボランティアへ行ったりバイトをしてみたりといろんなことに挑戦していました。ですが、飲食でのバイトは発達障害特性のマルチタスクやAPDがあり全く務まらず更にうつを悪化させることへ繋がりました。また、移動教室というざわざわした環境では上手く話し声が聞き取れずコミュニケーションが取れない原因にもなっていました。


これらの生きづらさのベースには、発達障害のグレーゾーンがあったことに当時はなんにも知りませんでした。約10年ほど経った現在だから客観的に考えられますが当時はなぜ?なんで?

なんでこんなにも努力しているのに自分は上手くいかなにのか。毎日毎日死にそうに悩みながら生きてました…。そんなストレスフルな毎日を送っていた私はついに高校3年の5月に双極症で倒れてしまいます。高校3年生にもなり本気で進路を決め出す時期に。頑張っても頑張っても報われない成績に焦りを感じ出した私は生徒会の補助員として申し込みさえすれば入れる役員に立候補しました。とりあえず内申点を稼がなきゃ。その一心で柄にでもないのに友達が副生徒会長ということもあり入ってしまいました。ですが、そこでも人間関係の難しさや重度になってきたうつの症状。加えて落ちた成績をなんとかするために寝ずに勉強をしていた生活。いままでのストレスや容姿のコンプレックスからくる対人への恐怖でついに私はそういう病気なのでは?と疑うようになりました。そしてどうしてこんなに自分は人と上手く関わらないのだろうと思いネットで調べて発達障害の特性を知りました。今程、認知度は高くなく医療機関でも専門的な検査はなくアンケートのようなものしかなく重度でなければ診断されませんでした。不眠がつづくことやその他うつ病の症状も伝えましたが発達障害の診断はおりずに抗うつ薬だけもらいました。

ですが、その抗うつ薬躁転へのきっかけとなり次の日から布団から一歩も動けなくなり3日眠り続けていたそうです。


そして、そこから私の双極症との闘病生活が始まります…。